7の月19夜☽荒々しい情熱

どんな人の心の奥底にも、人生への荒々しい欲求の情熱があります。愛し愛され、単に生き残るだけではなく人生をフルに謳歌しようという強い想いがあるから、私たちは逆境に負けてしまわずに生きていけるのです。けれども、こうした気持ちを抑圧する人が増えたため、多くの先進国では根本的な愛の本能は絶滅しかかっています。それらの国では、この情熱は動物的とも呼ばれます。一方、祖先はそれを神の創造の背後の力と呼びました。また、人生の道の先駆者はそれを愛という名で呼ぶこともあります。

 

7ばんめの月の巡りの地母神であるすべてを愛するは、人生への荒々しい欲求の情熱を失うことの落とし穴を示してくれます。人生を改善することなどできはしないと信じることは、結局、私たちの人生への愛を自己満足に置き換えていることになるのだと気づかせてくれるのです。

私たちはどれだけ自分の野心や夢を妥協させてきたかを忘れがちです。夢を持ち続けるだけの自分への愛がないために、私たちは自分の能力、粘り強さや力をなくしたのです。夢が消えれば、自己否定した人生の夢のかけらを映して、創造力の生の情熱はばらばらに消えていきます。

 

なくした夢の一部を取り戻し、人生へのあなたの荒々しい欲求の情熱を目覚めさせるために、自分自身をしっかり愛すべきときかもしれません。

 

夢が持てないのを社会のせいにするな~とか、歌の歌詞なんかにありそうなお言葉ですが、結局は自分自身なんだよということです。もっと重く受け止めるべきことですが、コメントが薄っぺらですいません。

 

 

 

 

 

 

7の月18夜☽心の風景

心の風景は人それぞれに異なります。征服に意欲を燃やし、困難を克服することが生きがいという心もあります。こうした心の風景は、木も生えない山のてっぺんの断崖のようなものかもしれません。

 

一方では、野生の花や緑に囲まれた静かな池に通じる草地のような風景を見せ、優しさを求める心もあります。また、人生の重荷に苦闘するあまり、ゴミ捨て場のようになった心もあります。野性的な心はその独立精神を映して、南国の嵐や火山の爆発のような風景を見せるでしょう。受け身で退屈な心は、大地と色のない空を分ける以外には何もない地平線のようかもしれません。

 

破れた心は割れた鏡のようなもので、かけらのひとつひとつに失った愛やかなわなかった想いが映っています。こうした心は人類の癒されない苦悩の象徴です。愛する人に死なれたり、友情が終わりを迎えたり、片思いに終わったり、人に捨てられたり拒絶されたときに、私たちの心の風景は砕け散ってしまいます。こうした痛みを体験したときに、次にとるべきステップは、その癒し方を学ぶことです。

 

7ばんめの月の巡りの地母神であるすべてを愛するは、まず自分を癒せるようになることで、どんな状況にも思慮深くなれるのだと気づかされてくれます。他人に対する痛みや怒りを癒したら、自分自身を許す橋渡しも必要です。自分自身や他人を許せないために、あなたの心の風景を砕け散らせてしまったことはありませんか?

 

7の月17夜☽信頼される友

あなたは私の心に触れ、

長い間忘れていた歌を歌ってくれました。

 

あなたは私の夢に語りかけ、

私はあなたに痛いほど恥ずかしい

一面を見せました。

 

あなたはありのままの私を認め、

私の魂の窓を開けました。

風が杉の香で

親愛への私の恐れを清めてくれました。

 

あなたの杖は

夢を追う私の道すじをしるします。

そして今、

私はその思い出を超えて、

遠い未来に手を伸ばします。

 

木の葉の色が変わり

あなたが帰ってくるのは

いつなのでしょうか・・・

 

何かに奮起され自分の頭で計画したことを突き進んでいるとき、なんか知らないけどポツンと現れる人がいました。こちらは一生懸命自分を生きているとき、それには関係ないと思っていてもそばにポツンといてくれる人は信用できました。自分が励むありのままを見せていたからでしょうか。何年も会っていなくても、年賀状だけは絶やさない仲です。そんなことを思い出しましたが、自分を思い立ったことをやるってそういう事か、と忘れてたことにまた気づかされました。